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2016-02-02

ひと図鑑 藤森香衣さん(モデル)

東京生まれの東京育ちの藤森香衣さん。どこかでお会いしたことがあると思ったら、それもそのはず、さまざまな企業のCMに出演されているそうです。高校卒業後、モデルの仕事に専念する道を選択した藤森さん。事務所に所属しているとはいえ、自由業であるモデルの世界は、若い藤森さんの想像超えた厳しい世界でした。しかし、自分らしさを失うことなく、押し寄せる荒波を乗り越えます。その藤森さんは35歳のとき、しこりを見つけます。乳がんでした。

藤森香衣さんプロフィール
IMG_237811才からモデルを始め、主に広告、テレビCMを 中心に活動。出演したCMは、70本を超える。長年の経験で培った知識や感性を活かし、ユーザーの目線に立ったプロデュースを展開、 現役モデル4人のグループ「Melissa mill」を考案、 組織し、女性のためのライフスタイル提案や、企業での講演、商品開発などを行っている。個人では「Hope For Tree」をプロデュースし、 2011年の国際森林年には観光庁、林野庁の後援の もと、木のイベントを実施。今後もサスティナブルな 森林保護、林業支援などの活動を行っていく。また、2013年4月、乳がんにより右乳房を全摘出。がんについての知識を広めるため、手術と同時に病気を公表し、がん全般の啓蒙活動を行っている。
藤森香衣 Official Website  ★藤森香衣オフィシャルブログ
Q. ずいぶん長く、モデルとして活躍されていらっしゃるのですね。

小学生のときに声をかけていただいたのですが、「大好きだった後藤久美子さんに会えるならモデルになりたい」って、最初は単純な理由でした(笑)。バブル最盛期だった当時は、企業も広告にお金をかけていましたから、お仕事はたくさんありました。中学までは公立の学校に通っていましたが、高校は、仕事に理解があって、勉強する環境も整っている品川女子学院に進みました。そして高校卒業後は、社会に出てモデルに専念する道を選びました。

Q. 大学進学は考えなかったのですか?

IMG_379219歳〜22歳くらいの間がいわゆるモデルの旬といわれていますから、将来もモデルを続けるのであれば、大学に進学するよりモデルのお仕事を優先するほうが良いのではないかと考えたんです。もちろん、仕事をしながら大学に通うという選択肢もありましたけれど、それって海外旅行の予定はないけれど、いざというときのためにパスポートを取っておくという感覚に似ているように思えたんです。それなら、無理をして大学に進学するより、私の商品価値を認めていただける間に、しっかりモデルの仕事をやっていきたいと考えました。在学していた品川女子学院はいわゆる進学校ですが、自分のやりたいことがはっきりしてさえいれば、どんな選択をしても先生方は応援してくださるような学校でした。

Q. 藤森さんのモデルとしての強みはどんなところでしょう。

162cmという私の身長は、モデルとしては小柄ですから、いわゆるランウェイを歩くようなファッションモデルには向いていません。そんなとき周りの勧めもあって演技の勉強をしたのですが、演技ができることで、CMのお仕事をいただけるようにもなりました。女子大生や若いカップル役じゃないといやだという若いモデルさんが多いなかで、私は、自分がどうしたら可愛く見られるかより「商品としての自分の価値」を客観視していました。また、モデルは「職業」だと思っていましたから、20才の時には、幼稚園の子どもをもつお母さん役もしましたよ。

モデルを始めてから今まで、約70本のCMに出演しています。長嶋茂雄さんの娘役をさせていただいたのもいい想い出です。

Q. ご自身の性格をどのように捉えていらっしゃいますか?

どちらかといえば、慎重で石橋を叩いて渡るタイプだと思います。モデルを続けるなかで、ときには契約問題などをひとりで解決しなくてはならないような場面にも幾度となく遭いましたから、基本「万が一」は起こりうると思っています。だから、何をするときも石橋を叩いてしまうんです。それが私の一番の強みかもしれません。周りを見ていると、「何とかなる」と、あまり考えもせずに実行してしまって、行き詰まってしまう人が多いように思います。でも、企業の経営者の方々にお話を伺うと、皆さん本当に細いところまで慎重に判断されているんです。それを知ったとき「万が一」を想定して、石橋を叩いて細部まで目を配ることはとても大切なことと考えるようになりました。

Q. モデル以外の分野にも仕事の範囲を広げられています。

IMG_37962008年頃から、細々とライフスタイルの提案を始めていました。それをおもしろがってくださったある方が、別のベンチャー企業やIT企業の経営者に繋いでくださって、新たに企業の商品開発などに広がっていきました。それからはモデル仲間4人でグループを作り、女性、モデルの目線でライフスタイル提案や商品開発、講演などを行っています。

そんななか、東北大震災が起こりました。あちこちのチャリティに協力しているうちに、被災者の方たちに本当に必要なことはお金や物をあげることではなくて、彼らの強みを理解したうえで仕事を生み出すことではないかと考えるようになりました。

震災の遭った2011年は、ちょうど国連が制定した国際森林年でもありました。偶然、観光庁に出向していた二人の若手官僚と知り会ったこともあり、横浜と福岡で森林の地産地消を紹介するイベントをやることになったんです。そのなかで、東北3県の木工アートなども売ることができました。地元のニュースにも取り上げられるほど、イベントは盛況でした。

Q. そんななか、藤森さんご自身に乳がんが見つかりました。

お風呂に入っているときに、脇の下に偶然しこりを見つけました。乳がんだと白い影が映るのですが、最初に病院に行ったときには、私の場合はそれが見当たらず、腫瘍ではなく、乳腺が映っているだけかもしれない、1年半後にもう一度いらっしゃいと言われました。

でもなんだかすごく嫌な予感がして、友達に紹介してもらった別の病院に行きました。先生は、「私がだいじょうぶと言ったとしても、あなたは不安だからここに来たのだと思うから、細胞検査しましょう」と言ってくれました。結局がんが見つかったけれど、これはがんで亡くなった友達が教えてくれたのだと思っています。

この病院は検診専門病院だったので、年が明けて改めて大きな病院に行くことになりました。がんと告知をされたのが12月、次に病院に行くまでの1カ月は本当につらかったです。結局その病院が合わなくて、セカンドオピニオンを受けに行った別の病院でCTを撮ったら、別の腫瘍が二つ見つかったんです。全ての腫瘍を切除すると胸は残せないという、医師の判断から、右胸を全摘し、同時再建(=形成外科手術で胸をつくる)ことになりました。

Q. 本当につらかったでしょうね。

一番つらかったのは告知された後の日々です。がんの患者さんって、告知されてからの2IMG_3799週間の自殺率が最も高いといわれているくらいですから。私の場合も、最初に病院に行ってからはずいぶん時間が経っていましたし、自分の状況を把握できるようになるまでは地獄のようでした。実は私の祖母は両胸とも乳がんになっているのですが、「検査の結果、もしも遺伝性の乳がんだった場合、あなたもそうなる可能性が高いので両方の胸をなくすことも考えておいてください」といわれたときは、本当にショックでした。

最近は、よほどのことがない限り、全てを本人に告知しますからね。私の場合は、乳腺の中にがんが留まっていたので、取りさえすれば、他への転移はないだろうといわれていましたが、胸を取るのは本当につらかったです。でもそれを乗り越えられたのは、同じ乳がんで友達を亡くしたこと、そして「いつかきっとこの経験が誰かの役に立つ日が来る」と感じられたからでしょうね。

Q. 治療の様子をブログに書いていらっしゃいました。

告知されてすぐカメラマンをしている友人に、これから乳がんの治療に入るから、密着取材をして欲しいと頼みました。全てを公表するのか、ひた隠しにするのかのどちらかしかありませんから、事務所にも公表させて欲しいと伝えたんです。こういう仕事をしているからこそ、私が全てをブログに書くことで少しでも誰かのためになれるんじゃないかなと思ったんです。もちろんモデルとして仕事を続けるうえではリスクもありましたけれどね……。そういうことを押してでも、公表するべきではないかと思いました。

それでもね、いくら見られる仕事をしているからといって、治療の様子を写真に撮られるのは怖かったですよ。でも、ある日病院で会計を待っているときに、私のブログを読んでいた乳がんの患者さんが泣きながら、「励まされました」と声をかけてくれたんです。そのときにひとりでもこういう人が世の中にいることがわかって、公表して良かったなと思いました。

Q. 昨年は、北斗晶さんが乳がんであることを公表されて、注目を集めました。

ピンクリボン運動の認知度が高くなって来ているとはいえ、日本においての検診率は約30%とまだまだ低いのが現状です。アメリカは80〜90%、韓国は75%程度ですから、いかに日本人の検診に対する意識が低いかわかりますよね。10人に1人がかかるといわれている乳がんなのに、自分はかからないから、時間がないからと、検診を受けないというのですから不思議です。

Q. どうしたら検診率を上げることができると思われますか?

行政と実際に検診を受ける人たちの認識に開きがあるように感じています。無料クーポンを配っている自治体もありますが、住んでいる場所で検診を受けるのが原則です。でも、働いている方は、会社に行っている平日に地元で検診を受けるのは難しいでしょうし、お子さんがいれば、土日だってなかなか検診には行けませんよね。例えば、生活範囲のスーパーの隣に病院を設置する、検診を受けたら普段使っている化粧品を割引で買えるなど、受ける人が少しでも自分の得になると思えるようなことを考えていかなければ、検診率を上げるのは難しいのではないでしょうか。私のように身近な人を乳がんで亡くして、恐怖心を持っていれば別でしょうけれど……。

Q. サバイバーのおひとりとして新たな活動を始めようとされていると伺いました。

IMG_3804まさに今、NPOを立ち上げる準備をしているところです。一昨年、昭和女子大のキャリアカレッジに通いながら、いつか実現したいと思っていたがんサバイバーの人たちのためのコミュニティサイトをどうやったら作れるかを考えました。
がんの患者さんたちは、悩みがあってもそれをひとりで抱え込んでしまったり、本当知りたい情報になかなかたどり着けなかったりすることが多いんです。また、がん患者のための小さなNPOはいくつもありますが、それぞれが個別に活動をしているために、繋がる場所が少ないのが現状です。

それらのプラットフォームなるようなWebサイトを作れれば、いろいろなことが解決できるのではないかと思ったんです。そのために、医師法や法律などをジャッジしてくれる専門家が見つからず計画が止まっていたのですが、ようやく協力してくれる仲間が見つかったので、この春には念願のコミュニティサイトをリリースすることができそうです。

Q. 藤森さんの少し後を歩く女性たちにアドバイスをお願いします。

最近のアラサーといわれる年代の女性を見ているとね、人生の指針が持てずに、生き方がぶれちゃっているような気がするんですよ。それは人として、女性としての生き方を見せてくれるようなロールモデルがそばにいないからなんじゃないかなと思うんです。私の場合は、品川女子学院の漆紫穂子先生を始め、あんな風に生きたいと思えるような素敵な女性たちを近くで見ていましたからね。そっちへ向かって歩いて行けば良かったんです。

私が高校を卒業してモデルの道に進むとき、25歳になったらこの仕事は続けられないだろうなと思っていました。でも実際には、アラフォーになった今でもモデルの仕事を続けていますよ。これからは今以上に、結婚する、子どもを持つ、仕事をするといったさまざまな選択を女性自身ができる時代になっていくのではないでしょうか。だから、もしひとつの道が閉ざされるようなことがあっても、今の自分だけが全てだなんて思って失望せずに、自分のあらゆる可能性を追求していって欲しいと思います。

私も、後に続いてくる人たちに「あんな風に歳を重ねていきたい」と思ってもらえるような、柔軟で、人生の重みがにじみ出るようなかっこいい女性になりたいと思います。

藤森香衣さんとお目にかかって

藤森さんを紹介してくださったのは、藤森さんが卒業した品川女子学院の校長である漆紫穂子さん。一昨年、取材させていただいた折に、「自らが乳がんを経験しながら、検診の重要性を啓蒙している卒業生がいる」と話してくれたのです。漆さんにとって、藤森さんはきっと自慢の卒業生なのでしょう。藤森さんも漆さんの生き方を「かっこいい」と言い、その背中を追っているようです。尊敬できる女性がそばにいることで、人は勇気をもらえるのかもしれません。

乳がんにより右胸を失った藤森さんは、つらくて泣き叫びたいつらい気持ちを胸に押し込め、治療の全てをブログに書き記しました。そのブログによって、いったい何人の人が、励まされ、助けられたのでしょうか。つらい治療、心の叫びをさらけ出すことは、並大抵のことではありません。それでも誰かが救われればとやり通した藤森さんの芯の強さに頭が下がる思いです。

そして今また、藤森さんはがんサバイバーのために立ち上がりました。つらいこと、苦しいことがあっても、それでも前に前にと進む藤森さん。たくさんの人が藤森さんの周りに集まって来ます。

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